文章とは鏡である。
国語なんかであると、いちいち書き手の思惑やら言いたいことなどを答えさせられて、
文章には答え、模範解答があると思いこまされるものである。
わたしが小学生であった時分などは、特に国語の成績ばかりが良かったので、それで天狗になったりしたものだ。
文があれば答えがある。
合っていれば丸が貰えて、間違っていれば赤で横に正答が付く。
そういうものであると学んで得心したからによって、わたしは国語ばかりが得意で、
それが転じて漢文が得意になって、迷走の挙げ句中国文学科に入学することになったというわけである。


しかし、マルとバツで話が付く場面と付かない場面があることは言わずもがなである。
例えば、文学屋の蠢く文学という分野は朱墨で丸を貰う学科ではなく、正答と間違いとの境のあやふやな学科で、
資料と理論武装でそれらしく「これぞ正答正道でござい」と大見得を切った人間が一等。
それ以外が二等。
それらしくないのが三等である。
書き手が何を考えて筆を取ったかなんてものは、書き手本人が語るか書くかしなければわからないことで、
そのわからないことを延々論議する、いささか又は多少又は半歩ズレたことを真面目にやるのが文学なのだ。
類推はできるが正解は聞かなければわからない。
歴史資料から歴史背景を探り、文字の字形から意味を探り、人生の流れから感情を探り、作品の山から動向を探り、それらをいくつもいくつも山のように述べてやっと一つの作品の評価論文ができあがる。
しかしそんなもの、作者が字を間違えたり気まぐれだったりすれば見当外れも良いところの、危うい論文だ。
それが十個も二十個もあって、説も正道や邪道や亜道や、正道と亞道の交わったのや、ただの妄想のようなのまである。
どれが正解かなんてのはわかりはしないのである。
作者が作ったものの真意を全部解説すれば答えはわかるが、多くの場合作者は作品を語らないのだ。
こういったことがあるので、国語の進化系と思われている文学では、マルとバツで答えを出すことはできないのである。


では、何故そんな不毛というか苦行というか、甘口に言えば崇高な非生産労働的思考運動の文学というものが滅びないのであるかと言えば、
それはつまり文章が鏡だからである。


国語では文章を読まされて「あなたはどう思いましたか?」と問いかけられる。
想定された答えであればマル。想定外であればバツである。
文学では文章を読まされて「この文学作品についてあなたの考えを述べよ」と問いかけられる。
説得力があれば一等。説得力がなければ三等である。
国語でも文学でも共通していることは何であるかと言えば、それは読み手が文章を読んで何を考えたか、ということである。
エッセイや論文などでは、書き手の考えがはっきり書いてあることが多いので『何を考えたか』ということは一致することが多い。
結論があれば、内容はともかく意見は伝わるので、大抵迷うことはない。
だが、それは文学の研究分野ではない。
文学の主な分野である小説や詩などとなるとそうはいかないもので、作者の言葉は登場人物の動作に還元され、ストーリーの流れに変換されてしまう。
腕の上げ下げ一つでも、別れを惜しんで手を振るためなのか追い払う手付きなのかで意見が分かれる小説という分野であるので、万人億人規模の小説や詩であれば見解はそれだけ多く分かれることとなる。
そして多く別れた見解を引き出す言葉が「あなたはどう思いましたか?」「あなたの考えを述べよ」なのだ。


文章は結局その文章を読んだ読み手の、読んだ時の感想を喚起する道具、要素、過程に過ぎないのだ。
千人の人があれば、千通りの見解があって然るべきである。
書き手とは関係なく、読み手の知識や感情やその人個人のそれぞれの要素で全く違う解釈になる。
だから文章は鏡なのだ。
ついでに言うと、千通りの見解を戦わせて混ぜ合わせて一つにまとめ上げようという作業が、文学なのだ。
それ故に文学は滅びない。
文章を読んでそれを意見し合う限り、又は小説には必ず作者が全段逐一解説を入れることという法でもできない限り、文学はいつまでたっても理論武装の真剣試合のようなことを続けるのだ。
それはそれで素敵なのであるが。


良くできた文章は、良く磨かれた鏡のように綺麗に読み手を写すことができる。
そうでない文章は錆びたアルミをのぞき込んだような、うすボンヤリとした程度しか読み手を写すことができないのである。
両者に共通しているのは、そこに書き手の姿はないということ。
鏡の横に張り紙でもあって「この鏡は純愛と希望をテーマにした壮大なラブストーリーで、この主人公は……」と書いてあれば話は別であるが、そんな長大な『あとがき』をわたしは一度たりとも見たことはない。
書き手は自らの文章を語らないことが、この国の通例なのである。
国外は知らないが、翻訳本ではまだ見かけない。
わたしの文章はどこにも読者を想定していないので、また自分がのぞき込むこと以上の機能は持っていないが、
それでさえそれに張り紙をすることは、人通りのある往来でストリップをするように恥ずかしいことであるので、
願わくばこれから先「この文章は純愛とラブとタナトスとエロースをモッチーフにした……」等と書くこと語ることがないことを祈るばかりである。
ちなみに今のわたしはパソコンの前ですっぽんぽん。
そろそろ夜も温かい。
夏である。