骨子案

「ドーナツの穴の理論を用い、脳内で犬を飼うこと」

 ペットブームも去って久しい昨今ながら、未だに多くの犬猫四つ足の動物達、リスやウサギと言った小動物達が、人間のペットとしてケージや小屋に囲われて飼育されている。
 まともに飼育されているペット達は、もちろん沢山存在することであろう。しかしながら、そうでない動物達もまた沢山存在するのである。
 例えば、新宿の某所にあるペットショップでは、狭いケージに入れられた子犬が空腹のあまりか自分の糞をベロベロと舐めて、糞を食べようとしている。自分のした糞が汚いものであることを教育される前に親から離され、狭いケージに押し込められた結果がこれなのだ。
 そして私は、それを窓の外から眺めているしかなかったのだ。

 新都社作家読者の諸兄姉諸君。我々がこれに対して起こせる行動は一つである。
 二次元の表現系であるweb漫画と一次元の表現系である文章を用い、我々は脳内にペットを飼うのである。
 脳内に犬猫または嫁や婿などを飼い、それを飼育することで現実におけるペットという体制に反対を唱えるのである、
 そして、私は反対を行う為のその方法をここに記すものなのである。
 一つ小話を引用する。


  ジョーは酒場で論理学の教授と知り合った。
  「論理学ってのはどういったもんですか?」
  「やって見せましょうか。お宅には芝刈機があります?」
  「ありますよ」
  「ということは、広い庭があるわけですね?」
  「その通り!うちには広い庭があります」
  「ということは、一戸建てですね?」
  「その通り!一戸建てです」
  「ということは、ご家族がいますね?」
  「その通り!妻と2人の子供がいます」
  「ということは、あなたはホモではないですね?」
  「その通り!ホモじゃありません」
  「つまりこれが論理学ですよ」
  「なるほど!」

  深く感心したジョーは、翌日友人のスティーブに言った。
  「論理学を教えてやろう。君の家には芝刈機があるか?」
  「いや。ないよ」
  「ということは、君はホモだな!!」


 正しく話を追えば話の筋を通すことはできるが、怠れば間違った着地点に着いてしまう。
 作家読者諸君には、ペット問題解決第一歩としてこれを是非一目でもお目通り願いたく候。



1:ドーナツの穴
 まずは小話から話を始めよう。

  ある時ゼミの教授がお土産にドーナツを買ってきて、生徒に一個ずつ配っていった。
  すると、ある一人の生徒が教授にドーナツを押し返して言う。
 「先生。俺ドーナツの穴が嫌いなので、このドーナツは結構です」
  それを受け取った教授はドーナツを眺めた後、厳かに言った。
 「なら、嫌いなドーナツの穴だけ残して食べなさい」
  ドーナツは再び生徒の手に戻ったのだった。

 これが本論の第一段階を表すのに最適な小話である。
 『ドーナツの穴』というものは在るのである。ドーナツに輪っかに囲われることでそこに穴として確かに存在している。
 しかし、その存在している穴というものは、ドーナツを食べられてしまうと存在し得なくなってしまう。しかし『穴』のあった場所には、ドーナッツの消滅以外には変化はない。それは詰まり『ない』のとどう違うのであるか。
 またよくよく考えてみると『穴』という物は『存在していない部分』であるからして『穴』なのであって、「ドーナツの穴が在る」というのは「ドーナツの存在していない部分がある」とすることと等しいのである。
 即ち、『穴が在る』ということは『「ない」ということが在る』という迷走のスタートラインに立つことに他ならないのである。
 無いが在ると言い得るということは、全ての『ない』は『在る』なのだ。
 即ち『ない』も『在る』のであり『有る』も『在る』なのである。
 諸兄姉にご理解は頂けただろうか。

2:シュレディンガーの猫 と 次元の断面図
 リュックサックに子猫を詰めて潜水艦のように16ノットで夜の町を泳いだのは大槻ケンヂであった。
 しかし、シュレディンガーの場合はちと話が違ってくる。
 まず猫を入れるのは箱である。猫を箱詰めにした後、中に50%の確率で猫が死ぬようセットされたガス発生装置を設置する。そしてその生存確率死亡確率双方50%の状態においておくのが、シュレディンガーなのである。
 まぁ、大槻ケンヂシュレディンガーも思考実験である点では大差はないのだが。

 この実験の意味は何かと言うと、箱の中で生きているか死んでいるか不明の猫というのは、観測されない限り同時に存在しているということを知って欲しいということなのだそうである。たぶん恐らく限りなくメイビーな感じの雰囲気でそうであると私は断言しよう。
 この生きている猫と死んでいる猫、二匹の猫というものは観測された時点でどちらかの猫に集約されてしまい、二匹の猫は一匹の猫に集約されてしまうのであると言う。
 箱を開けたら居るのは、生きている猫一匹か、死んでいる猫が一匹なのである。

 そして、ここで私は更に余計なことを付け加えてしまおうと思う。

 三次元は四次元の断面図である、ということをまず知って頂きたい。
 まず正四角形の立方体を頭に描きます。これが三次元。
 まず正四角形の立方体を横に切って頂きたい。その断面には四角形の平面があるハズである。これが二次元。
 その平面の四角形を切ると、今度の断面は一本の線がである。これが一次元。
 そしてその線を切って出来るのが点である。これが何もない次元ナシの状態である。
 この通り、一次元は二次元の断面、二次元は三次元の断面であり、即ち三次元は四次元の断面なのである。

 ここでアッチの思考とコッチの思考をフュージョンさせよう。
 シュレディンガーの思考実験においては観測前、死んだ猫と生きた猫は重なった状態で存在しており、観測によってその姿を統一されてしまうわけである。しかし、その観測された姿はあくまで三次元的に観測された姿であり、それは四次元的に見ればただの断面……つまり猫の一部分に過ぎない。
 そう、四次元視点で見るならば生きている猫も死んだ猫も、未だ同時に存在し重なり合っているのである。


3:脳内で猫を飼う方法
 ドーナツの穴、シュレディンガーの猫、次元の断面、この三つの考え方を大まかに知ることで、遂に脳内に動物を飼う道具は揃ったのである。
 もしこれをお読みの中の人に少しでも本文以上の知識をお持ちの方がいたが場合は、即座に頭部へ強い刺激を与え、記憶の一部を飛ばしてしまうことをオススメする。過ぎたるは及ばざるがごとし。詳しく知りすぎていても、飼う方法を得る為には障害になるし、無知のままでも方法は得られないのである。
 さて、ではさっそく動物を飼ってみよう。

 ドーナツの穴の理論でいくと、『「ない」という物は「在る」』なのである。
 私たちの側には何もない。しかしその『無』は『有』と同義である。
 そこにシュレディンガーの猫と次元の断面が登場する。
 その『無』とは即ち観測されていない事柄であり、そこには死んだ猫生きた猫どころではなく、無限の観測への可能性というものが存在する。それは何も観測されないからこそ無限であり、そしてそこには断固として『有』が存在するのである。そして『有』であるその場所には四次元的同時存在が潜んでいるのである!

 私は今では脳内で中型の柴犬を飼い、金魚用の水槽に松を植えてその中で放し飼いにしている。
 名前はポチ。餌はドライタイプの方が好きで、私が餌をやると腕に噛みついてしばらく離れない。
 一週間放っておくとひどく臭くなるので日に一度は洗いたいのだが、ポチはそれを嫌がるので苦労する……。
 と、まぁ、この様に